バングラキャンプへの道 その1 何気なくフィリピンでワークキャンプに参加
今から遡ること四半世紀。25年前の夏。98年の夏。
学生を二十人くらい連れて、井戸のない場所に井戸を作ったり、浅草で大量にかった花火をこっそり持ち込んで、電気のない村で祭りを行い、数千人の村人を集めて学校の屋上から打ち上げ花火を打ち上げたりした。
こんな機会でないと振り返れないので、何でそもそもそんなことをやろうと思ったのか、ここで振り返ってみたいと思う。
昔こういう文章を書いていたら、間違いなくもう少しカッコつけたり、自分を美化するものになっていただろうが、最早そういう気負いはない。ただただ、あの時のことを思い出す機会がこういうタイミングじゃないとないので、やっているだけだ。
その為、素直に。まどろっこしくなく率直に、をモットーに書いてみたいと思う。
バングラへの道 その1 何気なくフィリピンでワークキャンプに参加
そもそも、ワークキャンプという特殊な催しを自分で主催しようなどと思ったのは、自分がそのワークキャンプという催しに参加した経験があったからだ。私の場合、それはフィリピンで行われたワークキャンプだった。
バングラキャンプ開催前の4年前、94年の夏に遡ろう。
94年。当時、私は風采の上がらないどこにでもいる大学一年生だった。
入学当初こそ、テニスサークルなどに顔を出したりもしたが、合わなかったというか、単純に好意を持った女性がいなくなったので、自分もそこにいる理由がなくなった、みたいな簡単な理由で、サークルからは足が遠のいた。かといって運動部で本格的に活動するには意欲も足りなければ、資金も足りなかった。夏までには勉強のモチベーションも失い、何もすることがない、状態だった。
そんな私が、偶然、埼玉YMCAというNGOが主催するフィリピンでのワークキャンプのことを知る。当時、所沢在住だったので、確か親経由で告知を受け取ったような気がする。夏休みの2週間、貧しいフィリピンの農村でトイレ造りとか植林とかをするという内容だ。正直、何でそこで自分が行く、と決めたのかは覚えていない。はっきり言えるのは、情熱的に参加を決めた、わけではなかったということだ。
大学に入って何も夢中になれるものがなくて、ただ何となく暇つぶしのつもりだった。そこに何かを求めていたわけではなく、どちらかといえば、体力を持て余していたので、外国に行ってみるのもいいかな、と思っただけだった。フィリピンという国に興味はまるでなく、どっちかというとテニスサークルとか、そういうのに順応できず、夏休みにやることがないけれど、友人に暇だとばれるのが嫌なだけで、忙しいフリをする為に参加したようなものだ。
まあ、その辺のディティールは誰も興味ないだろうから、この辺にしとくが、とにかく外国への興味はほとんどなかったし、英語も全く話せなかった(英語の授業の成績も下から数えた方が早かった)。鈍っていた体を使って、ちょっとくらい肉体労働して、現地の人に涙を流しながら「ありがとうございます」みたいな感じで感謝されてやるか、みたいな傲慢な考えでいた。現地人と仲良くなろうなんて一ミリも思っていなかった。空手でいう山籠りの修行みたいなイメージだった(タイミング悪いことにモテないからって、「空手バカ一代」の漫画を読んでたんだよな、あの頃)。
しかし、そういう感じ(第三世界の厳しい環境で過ごして心と体を鍛えようみたいな感じ)で、行ってみたら、まあ、吃驚。結論からいうと、めちゃめちゃ楽しかったのである。何がって、現地のフィリピン人、もっというとフィリピン人女性と交流するのが(苦笑)。それは本当に、出会って5分もかかっていなかったと思う。秒殺だった。
現地に到着して、受け入れ先の団体が歓迎会を行ったのだが、その時まで私は本気で、現地のフィリピン人が涙を流しながら、よく来てくださった、本当にありがとうございます、とひれ伏すんじゃないかと思っていた。
ところが、いざ受け入れ先の大学から同世代のフィリピン人たちが姿を見せると、彼らはニコニコしながら、まあドヤ顔とでも言わんばかりの表情で、楽しそうに歌って踊ったのである。
わたしたちを歓迎する出し物という体だったが、どちらかというと、自分たちがどれだけ楽しんでいるかを見せつける、みたいな踊りと歌のように思えた。
修行僧みたいな険しい目つきで彼らを睨みつけていた私は、すぐに何かが違うぞ、ということに気がついた。
彼らは、心の底から楽しそうにしていることを見せつけることで、
私たちに何も期待していないとアピールしているように思えてしまったのだ。
そして、何かをしてあげるつもりでいた私は、
彼らが私たちに与えようとしている何かを猛烈に欲している、ということに
気づいてしまった。
自分が大学に入って、何か物足りなくて、それが何なのかわからなくて、多分心の思うままにセックスできないことが問題なのかなどと鬱々して、でもだからと言ってどうにもならん、みたいな堂々巡りをしていたわけだが、詰まるところ、自分は彼らのように人生を心の底から楽しんでいない、ということに気づいたのである。
これは言葉にすると陳腐だが、その時の気づきは衝撃だった。
それは、楽しもうと、思わないと人は心の底から楽しむことはできない、ということだ。
逆にいえば、楽しもうとすら思えてしまえば、楽しむことは簡単で、
カネとか、名誉とか、世間体とか、そういうものはほとんど関係ない、とも言える。
・・・彼らは、自分にないものを持っている。
圧倒的な敗北感というべきか、もっと素直に彼らにリスペクトした、という表現が適切なのだろうか。とにかく、その数秒前まで、貧しい国の無学で、将来性もない可哀想な人たち、という風にしか思っていない人たちが人生の師匠のように思えたのである。
ただ歌って踊ってるのを見て、そう思ったというと嘘みたいだが、本当だ。相手のことを根拠なく、軽蔑していただけに、本当はすごいのかもしれないと思ったからこその手のひら返しだったのかもしれない。
・・・なんて、書いておいてなんだが、それと同時にというか、それ以上にというべきか、その中の一人の女性に恋をしてしまったのも大きいかもしれない。
恋したら、全てが変わって見えた、なんて言葉で表現できなくないのかもしれない。
・・・まあ、若者なんてそんなものさ。
とにかく、その後の私は、一変した。
本当に到着後のダンスを見せられた後の自分は、別人になった。
苦行のように貧しい国で、肉体労働に黙々と励むはずだったのに、そんなことは一切忘れて、
フィリピン人から、どうやったら人生をエンジョイできるのかを学ぼうとした。そのために短い滞在期間で、彼らと積極的にコミュニケーションを取ろうと思い、下手な英語を駆使して、話し続けた。今思うと、良くもまあ、あれだけの語彙で、彼ら、彼女らと会話が成立したと思う。今は、英語を使って外国人と日常的に仕事をしているが、あの時ほどのコミュニケーションが取れたと思うことはない。
リアルに、気持ちさえあれば外国語でもコミュニケーションなんて出来るとその時、実感した。女性を口説くことすらも英語を使わないといけないとなれば、何とかなる、ということもその時に確信した。
いや、男女のコミュニケーションにおいては、言語のせいにして、気持ちだけでストレートに迫れる方が場合によっては、プラスになることだってあるようにすら思う、とその時の経験が自分の自信につながっている。
・・・、まあ、そんなこんなで、友達たくさん作ったり、一人の女性に恋をしたりだなんだで、楽しい2週間はあっという間に過ぎていった。
こうやって、フィリピンに行って、フィリピン人に熱狂し、フィリピン大好きになる人は、多い。こんな話は陳腐だが、私がそうやって、例に漏れず彼らから人生観を学べたことは、今でも宝だと思っている。
だが、私は一方で、天邪鬼というか、一筋縄ではいかない性格の持ち主でもある。
フィリピン人から人生を楽しむ魔法を学んだ私は、
そこでふと思ったのである。
・・・そういえば、私がここに来たのは、人生を楽しむ術を学ぶんじゃなくって、
貧しい国にトイレを作って、植林をするためじゃなかったっけ、と。
(続く)